復活へのあゆみ2

突然の脳幹出血発症から18年(2023年4月15日現在)復活への歩みの足跡

予兆は以前にもあった

脳出血の予兆というか前兆というかは、発症前にもありました。

わかりやすいのは、ろれつがまわらない感じがすることです。まだ発症していないので、なんとなくしゃべり辛い🥵感じがしたら要注意です。もう一つは、手が痺れる感じがすることです。ボクの場合は、右麻痺ですが、左手にも痺れ感はありました。発症する3年位前には、家族で明石の映画館まで映画を見に行ったことがありましたが、その時は昼の食事が合わなかったのか?昼食後に入った映画館内で、急に気分が悪くなり、映画中座席でしんどくて悶絶していました。運転手はボクだけなので、映画が終わって車に乗ると、家族を家まで連れて帰るとの使命感から、しんどさは忘れていました。これ時のことも、脳出血の予兆だったのかも知れません。その時は、家に帰って、今度病院で検査してもらうと家族で話していたのですが、不運にも、参観日があり、その準備の為に作業が多くて、すべてを忘れてしまいました。あの時、参観日後にでも、病院で検査していたら、今の事態は、避けられたのかも知れません。これを読んでくれた人は、自分の体調がいつもと違うと思うことがあれば、念のために病院で検査してもらうことを、お勧めします。

なぜ脳出血を発症したのか?

ボクの場合は、ボクの偏った食生活が原因だと言えるでしょう。でも、あの時にはまだ脳は頑張れていた。実は、ボクが脳出血を発症したのは、救急車🚑で運ばれた病院🏥のMRIの中なのです。その病院は、実家から近く、入院するのにいい所だったのですが、当直の脳担当医師が、ボクからすれば治療の力量がなかった医師だったと断言できます。なぜなら、ボクはMRI検査を2回連続でやられたのです。一回でやめてくれていたら、軽い脳出血で後遺症なしで、終わっていたはずです。ボクは、一回目のMRI検査が終わって病室に運ばれて、安心して深い眠りについていました。次に、意識が戻ったのは、2回目のMRI検査の最中でした。つまり、頭は固定され、まさかMRI検査をもう一度やり直しているとは思えず、頭の中が混乱😵‍💫して、目を開けてはいけないと勘違いしたせいで、頭に血が溜まり、ついには破裂してしまいました。2回目するのなら、ボクにわかるように説明してからにしてほしかった。スヤスヤぐっすり寝込んでいるボクに、なんの説明もなく、勝手にもう一度MRI検査をするとは、ボクが医療事故の被害者であるとも言えるかも知れません。それが証拠に、さっきまで、会話もできていたボクが、目👀が飛び出して、前身、力なく、見るも無残な姿に変わってしまっている、その姿を見て、ワイフも気が動転してしまった。そこに、医師は、一回目の記録は削除していいですか?とワイフに時間を空けずに問いかける。病院や医師と聞くと、それだけで、絶対的な存在と思い込んでいるワイフには、訳がわからないまま医師の言う通りに同意してしまった。つまり、一回目のMRI検査の映像は消去されてしまったのです。つまり、ボクは、医師さえ丁寧に診察してくれていたら、医師さえ、患者にわかりやすく、二回目のMRI検査が必要なことを説明してくれていたら、ここまでは重症になっていなかったのです。確かに、軽い脳出血はしていました。でも、1回のMRI検査で終わっていたら、数日の入院だけで、笑い話で終わっていたでしょう。ただ、冒頭に書いたように、ボクのことだから、遅かれ早かれ、こんな日はくると予想されますので、ボク自身は、自分の不摂生が原因だと思っています。医師が直接の発症原因だとしても、なってしまったからには、どうしようもないことなので、過去は振り返らず、未来に向かってリハビリを💪頑張る決意をしました。誤算だったのは、脳の病気が、身体が元通りには動かない病気とは、🤢夢にも考えていなかったことです。人間ドックでEをたくさん指摘されていたにもかかわらず、自分には関係ないことと何もしなかった罰が当たったのです。ここで、みなさんにアドバイスさせてください。人間ドックでEをもらった項目は、食生活の改善で、必ず良くなります。今からでも遅くありません。食生活を改善しましょう。ボクは、入院中の正しい食生活のおかげで、一時全ての項目が、正常になりましたから。健常な内に、検査結果を、正常にしておきましょう。

最後に、ひとこと。今日書いたことは、初めて公にすることです。18年前のことです。それに、患者本人の正直なところを書きました。誰かを責めるとか、18年前のことをぶり返す気は、さらさらありません。ただ、患者本人にはこう見えているということを医療関係者の方々に読み取ってほしいのです。そして、連休明けの医療活動に、生かしてほしいのです。

大好きなパソコンを持ってきてもらったのに

発症当時、パソコンが好きでした。というのは、まだ、小学校にパソコンが普及していない時期に逆上ります。県立社教育研修所で、パソコン研修が、年6回だったかの計画でありました。まだ、パソコンが世の中に普及していない時期のことです。校長に指名され、ぼくも参加しました。元々視聴覚機器関係が好きだったので、ぼくにピッタリの研修でした。そこでは、学期中は3日、夏休みには1週間、みっちりと研修できました。まぁ1983年のことだから、ウィンドウズもまだ出ていません。プログラミング言語を駆使して、パソコンを動かす時代です。その研修のおかげで、後にウィンドウズ95が発売されたときも、その後の今に至るまで、パソコンの機能は便利になったけど、中身はプログラミング言語で動いているので、同じだと思っています。ネットリテラシーとか、ネットの基本的なことは、その時に教わりました。このときは、20年後に自分を助けてくれるとは思ってもいませんでした。

話を入院して始めてノートパソコンを持ってきてもらったときに戻します。

待望のノートパソコンを持ってきてもらって嬉しい嬉しい。ところが、問題はそれからでした。ノートパソコンが目の前にあるのに、次どうしたらいいのかが思い出せません。記憶がなくなっているのです。さて、次はどうするのだろう?考える力もなくなっているので、全く思いつきません。それより、思い出そうと脳を活動させると、頭が痛くなってきます。今から振り返ると、脳細胞シナプスが脳内で伝達回路を探して、一部回路が無くなっているので、そこで脳自体も混乱して別の回路を探したり作ったりしていることが、頭が痛いという形で出てくるのだろうと思います。翌日、見舞いにきてくれたワイフに、ノートパソコンのことをいうと、パソコンのことがわからないワイフでも、開け方は知っていました。ノートパソコンを左手だけど開けたときは嬉しかった。得意だったパソコンも、左手だけで操作するのは大変です。今でこそ、疲れることなく操作できますが、当時は、エンターを押すのにも一苦労でした。エンターキーの位置が左手からは遠い位置にあるのです。両手が使えたころは、ブラインドタッチと同じくらいキーボードを見なくてもタイピング出来ていたのに、当時は、左手だけで、すぐ疲れて10秒も持たない感じでした。左手がとても重く感じるのです。でも、キーを触っているだけでも、嬉しいです。18年経った今でも左手だけなので、タイピングはゆっくりです。このはてなブログも、普段はスマホで打っておき、グループ貼付が、パソコンしかできないので、最後はパソコンで仕上げてアップしています。

道路は苦難の連続2🚥信号編

信号を渡るのが、命がけでした。

発症から9ヶ月経った頃に入院していた病院の病室から、スーパーが見えました。ゆっくりだけど、歩く🚶ようになってきたので、ちょっと行ってみたいなぁと思い、出かけました。すると、前回のブログで書いたように、配慮された病院とは違い、悪条件の世間へ出かけるようなものでした。なんとか自分で歩いて自分のお金で買ったジュースは、格別に美味しかったです。帰りに、フト見ると道路の向かいに💈散髪屋さんがありました。ということで、髪が長くなってきたところで、その床屋💈さんに出かけました。ところが、ここに大きな難所が待ち構えていました。🚥信号を、青の間に、渡りきれないのです。困りました。困ったけど、ここまで来て引き返すことも悔しいので、しばらく、信号を観察して、スタートを早い目にするタイミングを計りました。気持ちだけ早歩きで(現実は変化ない)なんとか渡れました。ドライバーもボクを見て、渡り終わったのを待って車を動かしてくれました。散髪屋さんでスッキリした頭になって、いい気分でした。その時は、自分のことしか考えられない状態でしたから、このような無謀なことをやってしまったのですが、本来は、入院患者が勝手に外出して、散髪する行為は禁じられていますので、真似をしないでくださいね。

踏切を渡る時の恐怖

たまに、散歩屋さんに行く時が大変でした。💈散髪屋さんは、1回850円と低価格が売りのところでした。今は、ボクの通っていたところは、閉鎖していますが。当時は、営業していて、障がい者用駐車許可証を車のフロントに置いて、車の往来のほとんどない所に駐車しました。問題は、そこからです。そこから散髪屋さんまでは、500m位でしょうか?それが私鉄駅にある散髪屋さんなので、障がい者が歩く🚶には、条件が悪すぎでした。道路は、広くなく、急勾配に傾いているので、500mといっても、体力を相当奪われてしまいます。最後には、最大の関所があります。踏切です。私鉄駅で、二つの路線の中継駅になっている為、よく遮断器が降りるし、一度降りるとなかなか上がらない踏切なのです。そこまで行くのに体力を使い、意を決して渡らなければなりません。それに、地面は、病院のように平らではなく、線路があり、傾斜もあります。踏切を渡ろうとスタートしたら、カンカンと音が鳴り、引き返したことも何回もあります。踏切の真ん中あたりで、遮断器がしまったこともありました。そういう時は、落ち着いて一歩一歩進んで、なんとか渡ったこともありました。そんな苦労してたどり着いた😰散髪屋さんだから、たとえ混んでいても苦になりません。これらの経験も復職に向けて、最高のリハビリだったと思います。苦労した散髪も、20分で、刈り上げから顔剃までやってくれます。不思議に思うのは、同じ行動を帰りもしますが、疲れが全く違うのです。帰りは、疲労感はありません。

その散髪屋さんも今はなく、車で15分で行ける安いところを見つけました。

道路は苦難の連続1

家の前が、道路まで少し上り坂になっていて、まず、これが第一の難関でした。自分の家なので、出入りに😅困ることは恥ずかしいので、😉頑張って上りました。そこまで🚶歩くと、もうクタクタです。はじめは、そこで引き返しました。それを何回か繰り返すうちに、家の近所を歩いて回れるようになってきました。

その後、気を良くして、さらにもっと遠くまで🚶歩きました。でも、いつも調子がいい時に限って、思わぬアクシデントに見舞われます。この時も、そうでした。遠くを見て歩くよう、アドバイスされていたので、遠くを見て歩いていたら、🕳️マンホールの蓋に不自由な右脚が引っかかり、そんなことは予想していなかったので、何が起こったか訳がわからず、不自由な右側からズドンと道路に倒れました。初めての時は、悲しかったけど、その後も何回かこけたけど、コケ慣れたという感じで、平気になりました。それより、もし倒れた場所に、ガラスの破片でもあったら…と思うと、何も怪我なく終わってよかったと思うことにしました。右脚がちゃんと上がっていなかったことが原因です。右脚を高く上げようと意識はしているのですが、なかなか上がってくれません。まだ、リハビリ中ということです。

 

外に出ると試練しか無い

休職中にリハビリの為、外に出て🚶散歩しようとしました。初めて外に出た😀喜びは、今も忘れられません。玄関のドアを開けて、外を見るだけで嬉しかったです。ところが、さっそく難題です。家の外に出ると、正式な玄関までは10mほどの石畳です。平らな病院しか歩いていないので、床が凸凹に見えるだけでも、プレッシャーとなります。初日は、仕方なく、出ようとしてやめました。悔しいので、石畳をなんとか歩けるようになりたいと、方法を考えていました。まず、すぐ近くの石畳だけで、その感触に、足裏に慣れさせることを計画しました。🧑‍🦯杖をついて石畳の上に立ってみる。身体がグラグラしました。18年経った今では、病気前と同じように歩いていますが、そんな些細なことも、リセットされていることに、😨ショックを受けましたが、乗り越えなければ、復職はできません。苦労して、石畳を歩けて、玄関の外に歩けるようになりました。(明日に続く)

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一度、押したら、それでいいようです。何回も押す必要はないようです。

よろしくお願いします。

高校の同級生が助けてくれた

高校の同級生が助けてくれたというと、いい話だけど、結果的にそうなったというのが正確です。高校卒業以来、ずっと同窓会長を務めていました。活動内容は、年1回、5月頃母校で開かれる常任幹事会に出席することと3年に1回ある総会に出席することとお世話になった母校出身の先生が転退職される時に出席することなどです。一度は辞めさせてと言ったものの、自分からすべてが奪われる悲しみもあり、ボクの身体の実態が理解できないのか?幹部の人たちは、簡単には辞めさせてくれません。たぶん名前だけでいいので、会長でいろということだったのだろうと、今振り返るとわかるけど、その時は、会長というからには、その勤めを果たさなければとの使命感から、休職中に、転退職する母校に勤めている人がいたので、送別会に案内されました。心に余裕がある時なら、副会長や過去の同窓会で世話役をしてくれた人に相談すると思うけど、その時は、そんな余裕がなく、自分一人で悩み、結果出席しなければ同級生の顔に泥を塗ることになると思い込み、出席の返事をしました。問題は、当日です。お酒も飲むので、バスで姫路まで行きました。電車に乗る勇気がなかったのです。姫路駅から、会場まではタクシーで行きました。会場に着くと、2階だと言われました。ふーふーいいながら、なんとか歩いて、2階の会場につきました。中に入ると、同級生が何人かいました。そこのテーブルに案内されて、懐かしい話に花を咲かせました。母校には、その時、転出する先生の他にも、母校に勤めている同級生が数人いたのです。そのことがわかっていたら出席したかどうかはわかりませんが、27回生同窓会長はボクだけなので、出席して良かったと思っています。それより、苦労した😥けど、結局すべてがリハビリになっていたと、振り返って思います。しんどかったけど、最高のリハビリをさせてくれた同級生に、感謝、感謝です。普通は、家でリハビリらしきものをするだけなので、外に出ると思わぬところに試練が張り巡らされていて、それを、乗り越えたことは、復職に向かって大きな自信となりました。

お風呂での闘い2

お風呂では、何回もすべりました。幸い怪我なく過ごせたのが不思議なくらいです。浴槽内ですべったこともあるし、浴槽から出ようとして失敗したこともあるし、何回もすべりました。そのたびに、ワイフに助けてもらったので、ワイフには頭が上がりません。たまにワイフが外出している時には、娘が世話してくれました。ありがたいことです。そんな何回も失敗を繰り返しながら、だんだん自分独自のお風呂の入り方を追求してきました。とりあえず今日現在のお風呂の入り方を説明します。

1 お風呂の湯を沸かす為、お風呂場に行く。浴槽内がきちんと水が抜けているのを確認して、お風呂の水の栓をする。その時、同時に風呂用椅子を入れておく。

2 お風呂の湯が沸いたら、浴槽の蓋を外す。蓋を丸めて隅に置く。風呂用椅子をセットして、ゴミ袋に最終の身体拭きタオルを入れて椅子の上に置いておく。

3 服を脱ぎ、装具を風呂用の古い装具に履き替える。装具をしたまま、浴室に入って、椅子に座って装具を外す。ゴミ袋に、装具とタオルを入れて、手の届くお湯が飛んでいかないところに置いて置く。健常者がお風呂で使う低い椅子の上に置く。

4 いつものように身体を洗い、流す。

5 最後お湯から出たら椅子に座って身体を拭く。装具をつけ、外へ出る。

6 外で外用の風呂用椅子に座って装具を外す。外した装具は風呂用なので、ゴミ袋に入れて保管する。装具をつけかえてから服を着る。

以上で、無事一人で入浴できました。ありがとうございます😊

 

お風呂での闘い 1

お風呂に入ることは、発症から約9ヶ月経った時に入院した病院で教わりました。他の入院患者と一緒に、ボクだけOTが付き添ってくれてお風呂に入るリハビリをしました。まず、服を脱ぐことから、丁寧に教えてもらいました。右手右脚麻痺なので、左手しか使えません。左手だけで服を脱ぐ。その手順を教えていただきました。裸になったら、次はお風呂用の車椅子に座って浴場に入ります。入ってから、シャワーで身体を綺麗にして、石鹸で洗います。片手なので大変だったけど、なんとかできました。髪の毛の洗い方も教わり、最後に浴槽に入ります。手すりのところに移動して、手すりを頼りながら、無事浴槽につかれました。熱めの湯だったけど、自分でお風呂に入るのは初めてなので、嬉しかった。次の難関は、浴槽から出る時です。OTが見守る中で、安心して浴槽から出られました。風呂用の車椅子に乗って外に出て、服を着ます。着る順番を教えてもらって、無事着ることができました。丁寧に教えて頂きありがとうございました。

健常者のマナーに惑わされるな

職場復帰して、仕事が終わってから、学年で食事会を開いてもらった。その時のこと。箸で食べ物を口に入れようとすると、口に届くまでに落ちてしまう。何度してもうまく運べない。そこで、とっさにひらめいた。元気な頃の習慣で行動はできないのだ。無理なのだ。背筋を伸ばして食べ物を口に運ぶ健常な頃のマナーは、障がい者には通用しないのだ。口を食べ物に近づけて、食べる。つまり、行儀が悪い食べ方なのだ。健常者が考えたマナーに、障がい者が従うのは無理なのだ。口を食べ物に近づけて、皿の上に口を持っていき食べる。そうすると、だいたいこぼれない。左手だけしか使えないので、大変だけど、なんとか食べ終えた。障がい者だからと家でいろいろサービスしてもらうのもいいけれど、身体の状態や諸条件が許される人は、外出して、失敗覚悟の上で、チャレンジしてみるのも、失われた機能を、他の動く部分がカバーしてくれて、同じにはできないけど、結果的に同じことができたと、嬉しい経験になるだろう。ボクの場合は、仕事という大きな心の支えがあったおかげで、チャレンジできたことかも知れません。定年退職して高齢者となった今なら、そこまでして頑張ることはないでしょう。そうする必要もないし、頑張る意味もないから。食事の時は、箸ではなくスプーンを出してもらうとか、あらかじめ考えていると、周りに迷惑をかけることがなくなります。牛丼屋さんでは、最初の頃は、ボクがお願いしてスプーンを出してもらったけど、何回か通ううちにスプーンも各テーブルに常設したいる状態になっています。いちいちお願いしなくてもいいので助かります。この前、久しぶりに行くと料金が高くなり、置き場所も変わっていたので、探すのに困りました。何より、牛丼を注文するのにタブレットを使う形式に変わっていて、片手しか使えないので困りました。店員さんにお願いして、タブレットを操作してもらいました。世の中便利になるのはいいけれど、身体の不自由な人も来店すると考えて、その時の障がい者の状態に合わせた対応をする社員教育を要望したい。ボクがいっている牛丼屋さんは、ボクは満足しています。

歌う時は喉への脳の伝達系統が違うようだ

先ほどの時間から数年後の話題になります。まだ職場復帰前なので、2年後のことです。ディサービスでカラオケを歌う機会に恵まれました。声が良く歌には自信があったので、内心嬉しくて、元気だった頃得意曲を歌うことにしました。シャ乱Qのいいわけです。前奏が流れて、寂しい夜は、歌おうとしたら声が出てきません。ショック😨でした。曲は、虚しく流れているだけです。それ以来、なぜ声が出てこないのか?疑問でした。一年後、ようやくその原因がわかりました。わかったといっても、自分で勝手に考えついたことなので、医学的に根拠がある訳ではありませんが。失語症だった頃を思い出して、声が出てきた時のことを振り返ったのです。つまり、喉に自分でブレーキをかけているのではないか?そのブレーキは、どうすれば外せるのか?考えに考えてたどり着いたのは、歌のテンポです。いいわけは、テンポが速い曲です。もっと一音一音が長い曲はないかなぁ?考えていたら、テレビから水戸黄門が始まって、終わりに、じ〰︎ん〰︎せ〰︎い〰︎、とあの歌が流れて来ました。これだ。喜んで、声を出して歌いました。うまく歌えました。嬉しい😃次のディサービスでカラオケの時に、一年振りに歌いました。上手に歌えました。嬉しかった。以来、歌の選曲には、一音が長い曲を探すことにしました。そして、たどり着いたのは、ゆずの栄光の架橋でした。ディサービスのクリスマス会の時に歌ったけど、心のこもった感情溢れる熱唱で、感動の涙を溜めている人もいたほどです。2020年1月3日、4年に1回開いている高校の学年全体同窓会でも、二次会で歌いました。不自由な身体になっても声は変わっていないことに、みんな喜んでくれました。ボクがカラオケを熱唱している裏で、中国ではコロナウィルスが蔓延していたとは。予定通りなら、そろそろ準備に入る高校の同窓会も、お医者さんや会社の社長や重役をしている友だちなど、今も各所で中心人物として頑張っている友だちが多いので、もう少し落ち着いてから、実行委員をしてくれる友だちに声をかけようと思っています。今はコロナ収束宣言的なものが聞こえるまで、我慢しようと思います。

STが教えてくれた衝撃

STのリハビリをしていたある日、そのSTに尋ねて見ました。ひょっとして、今の話、以前にも言ってなかったですか?するとSTは答えてくれました。やっと気がついてくれましたか。つまり、ボクは約1ヶ月間、同じ話をしていたのです。それが自分ではいつも新鮮に新しい話題として話していますから重症です。その後も、気をつけているけれど、現実では同じ話になっています。これを解消する手立てとして、その後は、前にも話したかもしれませんが、と前置きして話すように心がけています。それでも、繰り返してしまう。脳の病気とは厄介なものです。脳細胞が一部消えてしまったのに、外見上は本人にも他人にもわからないからです。衝撃ですね。

厳しいST訓練

ST訓練は、厳しかった。当時は、この人も若いからこうなのだろうと思っていたが、振り返ってみると、それが良かったのだ。でも、正直当時は、他のST訓練を横目に見て、厳しい😰当時は、おしゃべりが普通に出来ず、初めは声も出せなかった。それが、ある日、音らしきものが口から出せるようになる。それを、声にまで高めるのに苦労した。それは、訓練ではなく、自由時間に相部屋の人の付き添いで来た人らと会話らしきものをする中で、取り戻していった気がします。日毎に、声が出せるようになり、ST訓練を迎えた。小学校4年生の教科書に載っている、ごんぎつねの冒頭部分が書かれている。ボクは内心しめたと喜んだ。だってごんぎつねは、何度も研究授業で得意な教材だったからです。ところが、いざ読もうとすると声が出てきません。何度かチャレンジして、ようやく声が出てきました。ところが、一文字目がどもってしまうのです。ご、ご、ご、ご、ご、ご、ご、ごんは、ひ、ひ、ひ、ひ、ひーとーりーぼ、ぼ、ぼっちの。こんな感じです。何度かその訓練を繰り返してから、STが厳しくなりました。今日からは、吃(ども)たら最初からやり直しです。初めは、すぐにどもるので、やり直しと言っても、直前のことです。ところが、だんだん長く読めるようになってから、吃ったり、読み間違えたりした時には、ショックでした。自分の得意教材で苦労していることが。その時、最初の頃を思い出しました。喉の力を抜いて、目の前の文だけでなく、数行先も頭の中で先読みしておく。健常な時に、普通にやっていたことを、思い出すのです。こうして、最後には、ゆっくりだけど、読み間違えずに、読み終えることが出来ました。厳しいSTのおかげで、乗り越えられた瞬間でした。ありがとうございました。

 

優しいOTの教え

次は、OTの思い出です。

発症まもないので、自分の身体のことが、自分でわからないのが正直ななところです。そんな中、OTは、優しく接してくれた気がします。当時は、長く座ることすら、難しい時だったけど、OTは、簡単な作業をさせてくれました。最後の方では、片手で顔の洗い方や服の着方なども教えてもらった気がします。OT訓練は、生活に直結していることが多く、楽しかった。箸で小さな玉を移す作業とかです。20分だったか1時間だったか忘れたけど、楽しい時間がOT訓練の時間でした。