復活へのあゆみ2

突然の脳幹出血発症から18年(2023年4月15日現在)復活への歩みの足跡

同級生の主宰する学習会に参加して

昨晩同級生が主宰する学習会に参加した。参加者は医療関係者がほとんどです。同級生は、主に誤嚥について追究しているようです。最初の頃は、参加人数が少ないように思えたので、同級生を応援する気持ちを込めて参加させていただきました。初めて参加した時は、みなさん医療関係者ばかりで、患者の立場でもあるボクは異質な存在で、興味深くボクの話を聞いてくださったように感じます。ボクの経験がお役に立つのなら、質問していただいたら、答えられることは喜んでお答えしますが、ボクの闘病生活も18年になりますので、だいぶ記憶も薄らいでいます。48歳で脳出血を発症しました。でも、必死にリハビリして、最後には教師を定年退職まで勤めさせていただきました。仕事上、守秘義務は身にシミテいますので、部外者でも学習会で得た知識は口外しませんのでご安心ください。というより、話の内容は、雲の上の会話のようで、さっぱりわかりません。ただ、同級生を応援したいという参加理由から、最後まで、会には顔を出しています。みなさん、積極的な討論をご苦労様です。迷惑でなければ、今後も参加させていただくつもりです。障がい者となったボクでも、いまだに同窓会長を務めていて、自分のできることは、同窓生の応援をしたいという願いからの参加です。応援者ですので、安心して本音トークをお願いします。まとまりのない文になってしまいましたが、その心を読み取っていただけたら幸いです。

大学より学習できる、の言葉に乗せられて

2月に年間の活動の締めをした時出会った理学療法士など障がい者関係の仕事を目指している学生さんから、ボクの話は大学で学習するより勉強になります。と言われたことがきっかけで再び発信を始めたこのブログですが、その後、コロナ禍から徐々に元の日常に戻っている今、もう目的は果たしたのではないか?と思案しています。今後は、発信したい出来事があった時に、発信することとします。障がいに関係することはここで、それ以外で発信したいことは、もう一つのコーナーで発信します。お楽しみにしてください。もう一つとは、はてなブログに作っています。たまーにしか発信しないので、よろしくお願いします。

障がい者手帳をもらうまで

2004年11月20日深夜だから、多分21日になっていただろうと思って、ボクが健常だったのは、11月20日で、11月21日からは障がい者になってしまったのです。でも、この時は、まだ障がい者認定されていないので、入院費は普通保険で3割負担でした。それが障がい者認定されて、障がい者手帳を交付されたのは、半年後でした。障がい者認定されてからは、病院の治療費は1割負担でよく、助かりました。発症当初は、自分が障がい者となったことが信じられませんでしたが、現実に身体が自由に動かせない、しゃべれない、思考が停止しているなど、いろいろ激変しているので、障害者手帳をもらって、安心したというか嬉しかったですね。障がい者として手立てを受けられるからです。といっても、世の中、だんだん厳しくなってきたように感じます。

初めて入院した人にアドバイス2

18年前のことなので、時代遅れのアドバイスかもしれませんが、脳の病気で人生が変わったしまった人と家族へのアドバイスです。

入院したときは、まさか自分が…、まさか家族が…、と驚くばかりでそれ以外のことは考えられないでしょう。そこで、ぼくの経験をお知らせします。

今振り返ると、発症時点で障がい者となってしまったわけですが、最初から本人や家族には受け入れられません。日が経つにつれ、わかってくることです。運悪く、法律が改悪され、介護保険という新しい制度が出来、その施行が2005年7月からで、その7月にボクの障害者認定が認められました。当時は、要介護4だったと思います。介護保険は、介護度が大きいほど、いろんなサービスを受けられますが、負担金も増えるので、得しているのか、損しているのか?わかりません。

障害者認定されてから、家を段差の解消やお風呂の改造など、諸経費は必要ですが、当時20万円の工事費用に対して2万円だけの自己負担でよかったと思います。ただし、一生に1回だけです。そこまでなら、いい話ですが、当時入院していた病院が、まるで老人ホームのような病院で、看護師さんたちも人によって態度を変える入院していて息苦しい病院で、出入りの業者も同様に悪く、業者が家まで来てアドバイスしてくれて、市に提出する書類などの手続きも代行してくれると言うので任せていたら、まんまとぼったくられました。後日2階に上がる階段の手すりを付けてもらうのに、昔世話になった近所の人にお願いすると、とても安くしてくれたので、病院で紹介された業者のことを話すと、ぼったくり業者とのこと。病院に紹介されたと言っても病院には関係ないので、障害者となってしまったら、家の近所の業者を探して、ぼったくられないように気をつけましょう。

今は、介護保険は負担金を減らすために、返上しました。

参考になれば幸いです。

車の運転のこと。バックガイドモニターの活用。

不思議なのは、運転のことです。運転中は集中していて、横断歩道を見ると歩行者はいないか確認します。今の車の便利だと気付かされることは、バックの時です。バックガイドモニターが後ろの模様を写してくれます。自分の目👀で見るより、広い範囲で写してくれます。バックの時は、バックガイドモニターを見ながら、ゆっくりと動かします。なぜなら障がいのため後ろを見ることが出来ないのです。だから、バックガイドモニターは助かります。後ろが映るので、万一他の車が来ても、止まれるからです。アクセルをゆっくり押し、そろっとアクセルを踏む。車がゆっくりバックする。慎重に慎重に、今まで経験はしていないけど、万一他の車や歩行者に出会っても、お互いに警戒できる余裕が生まれるゆっくりバックすることを心がけています。

入院する時のアドバイス1

何らかの病気で入院することになったら、普通なら入院のことは無関係な生活をしているものだから、病院を選ぶなんてできないですね。そこまでは、時の流れに身を任せて回復を🙏祈るばかりでいいのです。だって、仕方ないことですから。ボクの場合、救急車🚑で運ばれた病院がボクには合っていなかった。すでに軽い脳出血を発症していたのに、MRI検査では綺麗に普通の写真が撮れていたのが気に入らなかったのか?その医者は、再度MRI検査をしたのです。あの時、一晩休ませてくれていたら、朝には回復し、ボクの人生は元に戻っていたでしょう。そんなことを何度考えて悔やんだことか。そこで、アドバイスです。お医者さんがこのデータは処理していいですか?と、データを消すことに同意を求めてきたら、即答で、残しておいて下さい。とハッキリ答えましょう。まず、お医者さんが、患者家族にデータ処理の同意を求めること自体が普通では無いことだからです。

装具のベルトを通す金具

装具のベルトを通す部分が、すぐ倒れてしまってはめるのに苦労することをお医者さんに相談すると、ベルトの通す金具を変えてみましょうと提案された。それで変えてもらったら、前より良くなった気がする。それをお医者さんにいうと、しばらく様子を見てから、判断しましょうとのこと。留め金など、どれでも同じと考えるのは、大間違い。留め金一つで、履き心地が変わるのです。それが証拠に、我が家の二階に上がるのに、最後の一段が上がれず引き返したことが何回かあったのですが、自分の体調や歩き方が原因だと思っていたけど、大間違い。留め金が原因のこともあるとのこと。お医者さんから、その話を聞いて納得した。歩きにくいとか、何か不具合が感じられる時は、それなりの原因がある。問題は、そのことを適切にアドバイスしてくれるお医者さんに診てもらっているかどうかだ。

 

 

リハビリは日常生活のすべて

障がい者となっていつも思うことは、何気ない日々の生活のすべてがリハビリになっているということです。昨日は、高校の近くに出来たイーグレ姫路というところで、同級生の連れ合いさんが開いている個展を鑑賞に行ってきた。イーグレ姫路は、料金が無料でないと使えないらしく、もちろん無料でした。そこまでのドライブ、着いてから会場まで歩く🚶こと、約30分ほど、会場を1作品ずつ丁寧に鑑賞すること、すべてが自動的にリハビリとなっていて、ボクとしては一石二鳥の時間でした。小声で感想を話したり、同級生と語り合ったり、おしゃべりのリハビリにもなっています。喋ることは、とっくに表面上は元に戻っていますが、自分としては、まだまだの時もあります。

障がい者認定について

まさか自分が障がい者と呼ばれる立場になろうとは、夢にも思っていませんでした。それが、一瞬にそういう状態になってしまうので、恐ろしいですね。発症して半年後に、障がい者認定されました。ボクの場合は、2種2級でした。自分としては不本意だけど、これも割り切って考えないと、やってられません。初めの頃は、そのうち良くなると信じていたけど、それも儚い夢だと気付かされたのは、だいぶ後だった気がします。その後、パラスポーツを知ったり、リハビリ施設を知ったり、パラスポーツ指導員の資格に挑戦したり、障がい者フライングディスク🥏指導員の資格を取ったりと、いろいろ挑戦しました。資格を取る為には、試験があります。1年間に6回の研修と終了認定試験、いずれも無事通過して資格も取りました。それらの自信が、自動車免許更新でも生かされて、無事条件付き免許更新ができたのでしょう。

病室での生活

2005年2月初め、当時県立で唯一のリハビリ病院🏥に転院できました。ところが、たまたまですが、暦が運悪く、土日と建国記念の日と重なり病院は休みで、寂しい入院生活のスタートでした。ようやく月曜日になって、リハビリが始まりました。頭の中では元気に走りまわっている自分がいるのに、現実には歩けない、話せないの可哀想な状態でした。リハビリの詳しいことは、以前書いてあるので、読んで頂きたい。病室は、6人部屋で、みなさん優しい人ばかりです。初めの頃は、病室ではおとなしくしていましたが、しばらくして話せるようになると、顔友だちになりました。具体的に言えば、脳の病気の為、お互いにおしゃべりができないので、6人部屋といっても一人だけと同じ状態なのです。それが転院までの3ヶ月ちょっとで、たどたどしいけど、何とか会話らしきものができるまでに回復しているのです。病室での会話らしき意思の交換、食道での会話らしき行動、ぼくが話せなくても周りの人で話せる人は多いので、ただ聞いているだけでも嬉しかったことを覚えています。

本番に強かったのに

脳出血発症前は、本番に強い人間でした。それが、真逆の人間になってしまった。悔しくて仕方ありません。でも、視点を変えると、本番に弱い人の気持ちがわかり、視点が広がったと思えばいいのです。結果を気にせずに、自分のプレーに徹することを心がけて、集中、集中といい聞かせてプレーしたいと思います。もう一息のところまで回復していると考えます。そんなことを考えているうちに、いらない力が入って、また、失敗する、そのカラクリのような悪循環がわかってきたので、その克服に努めています。

自分の好きなことから活動開始

ボクの場合、パソコン操作が好きで、職場のホームページを開いていた。当時は、2000年前後のことで、今のようにコンピュータウイルスの心配もなく、ただ個人名とか個人が特定される表現は避けるとかの、プライバシー保護に配慮して作っていた。顔は出ていなくても本人や保護者から喜ばれる有意義な仕事だった。今では、逆で、変な事件が続出している影響で、情報発信も変わってきたようだ。こうして文を考える作業にしても、発症当初は、頭が痛くなり、考えることをやめていたが、いつのまにか、頭が痛くなることが少なくなり、今では、たまになる程度になっている。このボクの経験から、脳の病気になっている人やその他の病気も含めて、コツコツと日々生活して、退院してから、リハビリを続け、毎日同じことをしているようでも、身体は、1ミリずつ良くなっている、1ミリは例えで、実際には1ミクロンかもしれないし、もっと短いかもしれないけど、18年経って振り返るといえることなので、この病気になった本人や家族の方々は参考にしてください。昨日より今日、今日より明日、良くなっているよ。

最悪のスタートだった

自分の心がどうなっているのか?さっぱりわからない。発症当初はそんな感じでした。ただ、何も考えずに病院暮らしを過ごすだけで、ちょっとでも考えようとしようものなら、たちまち頭が痛くなるのです。もちろん、思考力も失っていたので、幸せといえば、一番幸せな時期だといえるでしょう。以前にも書きましたが、発症当初は、発症前の元気な頃の自分が、頭の中にいるものだから、いつかは元の自分に戻ると、本当に思っていました。冷静になって振り返ると、当時は、寝たきりに近い状態で、看護師さんの世話にならないと何もできない状態でした。だから、正常な思考さえできていれば、自分の現状を正確に理解できたでしょう。現実には、自分が大変な病気になってしまったこと、それは、一生続き、二度と元気な頃の自分には戻れないことを自覚しなければならないことなのです。言い換えれば、病気の現状が本人には正確に理解出来ないので、リハビリを頑張るエネルギーもわきあがるのです。本人の周りの方がたには、ぜひ、この微妙な部分を理解いただき、本人の元気な頃に近づきたいという願いの支援者となって頂きたい。

ボッチャ交流会

今日は、久しぶりに宍粟市でボッチャ交流会がありました。前にも書きましたが、その世話をしてくれている人たちが若者たちなのです。見たところ、30歳前後の若者が集まって、活動しているのです。それが、嬉しくてたまりません。ボクも、普段は一人ぼっちで、自分の投げたボッチャボールを自分で拾い集めて、また、投げることを繰り返していました。同じことを繰り返していると、工夫が芽生えます。投げたボッチャボールを、今度は逆向きに投げることを覚えました。つまり、ボールを集めるのではなく、スタート地点にうまく投げ返すのです。こうして、効率よく練習できます。ところが、この方法には、一つ落とし穴があります。車椅子ばかり利用して、自分の脚で歩かないのです。だから、集める方法と転がして戻す方法と、併用がいいのかも知れません。

G7サミット広島

G7サミットといっても、障がい者のボクには関係ないかも知れない。でも、世界情勢を考えると、アメリカと中国の覇権争いの今日を考えると、いつか戦争になってしまうかも?との危惧も考えられ、戦争のない世界を築いていく願いから、平和を守る、戦争反対のG7サミットであって欲しい。軍事費を縮小して、障がい者などへの福祉関係の予算を増やして欲しい。そのような話題が展開されるサミットであって欲しい。障がい者予算を増やして欲しい。